「社員のために昇給させたのに、なぜか『手取りが減った』と不満を言われてしまった…」
経営者の方から、そんな悲痛なご相談を受けるケースが増えています。
特に、令和7年10月に過去最大級の改定が行われた「最低賃金」への対応で給与を引き上げたところ、この問題に直面した方も多いのではないでしょうか。
なぜ、良かれと思って給与(額面)を上げたのに、手取り(実際に振り込まれる額)が減ってしまうのか? その最大の犯人は、「社会保険料(健康保険料・厚生年金保険料)」の仕組みにあります。
「手取り逆転現象」を引き起こす“犯人”
給与(額面)から天引きされるものには、主に「所得税」「住民税」「社会保険料」があります。所得税や住民税は、基本的に給与が上がればその分だけ増えるため、昇給額以上に税金が増えて手取りが減る、ということは通常ありません。
問題は「社会保険料」です。
この社会保険料は、毎月の給与額に直接、保険料率を掛けて計算されているわけではない、という点が最大のポイントです。
これは、社会保険料を計算するために使われる「給与ランク(等級)」のようなものです。健康保険は50等級、厚生年金は32等級に分かれています。
このランクは、原則として毎年4月・5月・6月の3ヶ月間の給与(残業代なども含む)の平均額で決定され、その年の9月から翌年8月までの1年間の保険料が固定されます。
この「標準報酬月額」の仕組みこそが、手取りの逆転現象を引き起こします。
等級の「境界線」をまたぐ昇給に注意
例えば、標準報酬月額のランクの境界線が「21万円」と「23万円」だったとします。(※等級は都道府県や組合によって異なります)
給与が20万5千円だった人の場合、ランクは「21万円(例)」が適用され、それに基づいた保険料を払っています。
ここで、昇給して給与が21万5千円になったとしましょう。
この場合、次のランクである「23万円(例)」の等級が適用されます。
たった1万円の昇給でも、計算の土台となるランクが「21万円」から「23万円」へと2万円もジャンプアップしてしまうのです。
結果として、増えた保険料の額が、昇給した給与の額(この場合1万円)を上回ってしまい、「給与は上がったのに、手取りは減った」という悲劇が起こるのです。
経営者が知るべき「昇給のベストタイミング」
この恐ろしい「手取り逆転現象」は、いつ昇給を行うかによって、ある程度コントロールが可能です。
魔の「4月・5月・6月」
前述の通り、社会保険料のランク(標準報酬月額)は、原則「4月・5月・6月」の給与平均で決まります。
つまり、この3ヶ月間に昇給を行うと、その昇給額がダイレクトに9月からの保険料に反映されることになります。
もし、このタイミングで残業が重なったり、昇給額が等級の境界線をわずかに超えたりすると、社員の手取りに大きなダメージを与えかねません。
昇給するなら「7月」が賢い選択?
一方で、もし定期昇給を「7月」に行った場合はどうでしょうか?
7月の昇給は、その年の標準報酬月額の算定(4〜6月)には含まれません。そのため、昇給による保険料のランクアップは、翌年の9月まで持ち越されることになります(※大幅な変動があった場合の「随時改定」を除く)。
これにより、社員は丸1年間、昇給による手取りアップの恩恵をしっかり受けることができ、会社側も社員の不満を回避できる可能性が高まります。
賃金改定は「シミュレーション」が命
令和7年の最低賃金の大幅アップは、多くの企業にとって賃金体系の見直しを迫られる大きな出来事でした。
「最低賃金をクリアすればOK」ではなく、「どう上げれば」社員の満足度が本当に上がるのかを考えるのが、これからの経営者・人事担当者の腕の見せ所です。
昇給やベースアップ、あるいはパート・アルバイトの時給を決定する際は、
- 「年収の壁」(103万、106万、130万など)を越えないか?
- 正社員の「標準報酬月額」の等級を不用意に上げないか?
この2点を必ずシミュレーションすることが重要です。
社員のモチベーションを上げるための昇給が、意図せず「手取り減少」という結果を招かないよう、賃金設計は慎重に行いましょう。判断に迷った際は、私たち税理士や社会保険労務士といった専門家へ、ぜひお気軽にご相談ください。